同人誌、ぬいぐるみ、そして憲法記念日。

2026.4.28

I’m a ……(あいま)
無数の「わたし」に分かれる前の
第一回

しゅんD

同人誌、ぬいぐるみ、そして憲法記念日。

ゴールデンウィークと言えば、何だろうか。

 

ここで何、と答えるかでその人の暮らしが見える気がする。暦通りの休みじゃないから普通に働いているとか、休みだけどどこにも行かずにダラダラ動画を見るのが幸せとか。あるいは、東京ビックサイトで行われる同人誌即売会に行くとか出るとか。はたまた、憲法記念日の集会に行くとか。まぁ、後半の例はちょっとクセが強いかもしれないけど。

 

私は、オタク女であり、気が付くと、憲法研究を生業としていた。
小学生のときから、いろんなジャンルにハマっては、その時々の好きなアイドルに影響を受けただとか、好きなキャラクターに勇気をもらっただとか理由を付けながら人生のルート選択をしていたら、今は、研究者というところに辿り着いた。そんな感じ。

 

数年前の5月3日朝、私は東京ビックサイトで同人誌即売会の開場待ちをしていた。冬の即売会にも一緒に行った知り合い(SNSを通じて知り合った人なので、以下、“フォロワーさん”と呼ぶ)と国際展示場前駅で待ち合わせをし、暑いね、熱中症に注意しないとなんて言いながら駅を出た。
そして、とんでもない人混みの中、私たちは目当ての同人誌を買い、なんなら子供が熱を出して来れなくなってしまった別のフォロワーさんの分の同人誌も買い、昼過ぎには目的の買い物を達成した。
さらにその日の私は14時から別の用事があり、一緒に行ったフォロワーさんも用事があるとのことで、さっさと駅に向かった。

 

国際展示場前駅ロータリーには、社民党の街宣車が来ており、憲法擁護や平和や何かを必死に訴えていた。同時に、そのカウンターのために駆けつけた右翼の街宣車も来ており、駅前は騒然としていた。そう、5月3日は憲法記念日でもある。
そんな街宣車の横を、同人誌を抱えたオタクたちがそそくさと通り過ぎていく。駅から出ていく(帰るオタクたちとは逆方向に進む)人たちは、比較的高齢の人が多く、カバンには「アベ政治を許さない!」の缶バッチが付いていた。その人たちは付近で開催される護憲集会に行くのだろう。そして、オタクの中には、「痛バック」と呼ばれる推しキャラクターの缶バッチを大量につけた鞄で即売会に参加する者もいて、痛バの缶バッチと「アベ政治を許さない!」の缶バッチが交差する。

 

私も気が向けばデモに参加することはよくあった。それに、どちらかといえば護憲派だ。社民党の演説になんとなく共感しつつ、脳みそはフォロワーさんとの萌え語りの会話に集中して歩いていた時だった。
「うるさいね」とフォロワーさんは言った。そして、そのまま「騒ぐなら選挙で勝ってからにすればいいのに。」と続けた。私は、「あはは」と曖昧に笑って、「で、この間のアニメ〇話なんだけど」と話を萌え語りに戻そうとした。
でも、駅に近づくほどに人は多くなり、さらに演説とカウンターの右翼の演説の音が大きくてあまり会話にならない。その間も、フォロワーさんは、選挙で勝てないのにあんなこと言って、とか、言っていたような気がする。演説の音はどちらも大きかったのに、フォロワーさんにとっては、どうやら社民党の演説の方が気になるらしかった。そして、大きな音が落ち着く頃には、もう改札前に来ていて、私はそのフォロワーさんと別れた。

 

私の午後の用事は、憲法系の学会が毎年市民向けに開催している憲法記念講演会だった。
同人誌がぎっちり詰まって重たい鞄を背負って、私は会場の某大学へと向かった。少し早めに着いたので、記念写真として、会場である大学の有名な建物とぬいぐるみの写真を撮った。その年の私は、ちょうど推しの「ぬい」(=ぬいぐるみ)を手に入れたばかりで、どこに行くにも連れて行き、名所とあれば写真を撮っていた。ちょうどその日は、前日に手作りの服を作り、初めて着せてあげた状態でのお出かけだったので、そのお洋服の記念の意味でも写真を撮りたかったのだ。まぁ、身バレしそうだからSNSにはアップできないなぁ、なんて思いながら。
同人誌が詰まった鞄にぬいを戻し、会場の教室に向かう。そこには、たくさんの聴講者と、顔を見たことのある研究者が何人かいて、私は重たい専門書が鞄に入っている振りをしながら知り合いの研究者に会釈をした。

 

講演はとても勉強になるものだったけど、私の頭の中は国際展示場駅前の出来事でいっぱいだった。あの時、何をどうするのが正解だったんだろう。
SNSの「フォロワー」とは不思議なもので、どんなキャラ、どんな声、どんなシチュエーションが好きかはお互いに語り尽くしよく知っているとしても、どんな仕事をしていてどんな思想信条を持っているか知らない。というか、ほとんどの場合、本名を知らない。アカウント名とアカウントで放出される内容だけを知っている。
だからこそ、居心地がよいことは十分知っている。子どもがいたり、いなかったり。既婚だったり、独身だったり。10代だったり、50代だったり、もっと上だったり。同じ子持ちでも、パートで働いている人と、フルタイム管理職の人。みんなそれぞれ違う「暮らし」を持っている。
私がよく遊ぶオタク友達はよく言う。「ここだと『ママの顔』をしなくていい」と。私はそれを聞いて、なんだか嬉しくなる。年齢差のある彼女と、お互いに「〇〇ちゃん」と呼び合って、タメ語でしゃべる。世間じゃ、独身/既婚とか、バリキャリ/ゆるキャリ、子持ち/子無し、若い女/そうではない女といくらでもレッテル貼りされて分断されてしまう「わたしたち」が、キャッキャッと一冊の本を囲んで何時間でも喋っていられる。それは「ママの顔」も「研究者の顔」も「主婦の顔」も「管理職の顔」も「パート労働者の顔」もしないで、ただただ「オタクの顔」でいられるからだ。私にとって、この空間は本当に居心地が良い。

 

政治の話は、「暮らし」の話に直結する。もちろん、オタクコンテンツも非常に政治的な文脈に置かれているので、「オタクの顔」をしているときは政治の話を避けられるなんていうのは欺瞞でしかない。欺瞞でしかないにしても、まだその「欺瞞」を維持しようと思えば維持し続けられる(気がする)。
「ママ」だとか、「管理職」だとか、「パート」だとか、「暮らし」の話は、そういう訳にはいかない。

 

と、いうのは言い訳だ。
国際展示場前駅で、ただ曖昧に笑うしかできなかったことの自己弁護。じゃあ、「いや、民主主義における選挙って勝った方が発言する権利があるなんていう話じゃないよね」とか、そう言えばよかった?
あるいは、「実は私の仕事は憲法研究者で、そういうの詳しいんですけど」って専門家マウントをとってから、選挙って憲法って、って説明でもする?さっきまで一緒に同人誌を買っていた関係で?それをしてしまったら、もう「〇〇ちゃん」って呼べない仲になっちゃわないかな?
もう少し曖昧に「こっち(右翼)もうるさいよね。」って、どっちもどっちにすればよかったかな……。
こういう所から政治は始まるし、社会運動も始まるって知っている。「社会運動の第一歩は身近な人と話すこと」なんていう話は、大学学部生時代から何度も聞いた話だ。
少しずれるかもしれないが、憲法の教科書には「表現の自由」を手厚く保障する理由として「自己統治」とか書かれていることがある。表現の自由を行使して、お互いに討論しあい、コミュニケーションを取ることは民主主義を維持するために欠かせないことであり、だからこそ、表現の自由は手厚く保障されなければならないのだと。
駅前に街宣車を停めて演説をすることは、もちろん表現の自由の行使だが、きっと身近な人とおしゃべりをすることも、それと同じくらい大事な表現の自由の行使であり、民主主義を維持する大切な営みであるはずだ。それこそ、オタクの大好きなえっちな同人誌を発行して読む表現の自由と同じ表現の自由なのだ。

 

そういう理想はわかっているけど、なかなか難しい、と私はいつも思う。私が大学で性的マイノリティの権利擁護活動を出来たのは、親の眼が届かないからだし、私が街宣車の上に乗って特定の政党の応援演説をしてみるなんてことが出来たのも、大都会東京の喧騒にかき消されてしまって知り合いに会うことはないと思っていたから。
要するに、私はコミュニティごとに顔を使い分けていて、その使い分けに問題が発生したときに対応に窮する。SNSのアカウントを複数使い分けるみたいに、コミュニティごとに「名前」があって、コミュニティごとに「言ってはいけないこと」の異なるルールの中で生きている。

 

今年も、5月3日が来る。
今年の同人誌即売会に行く予定はないけれど、フォロワーさんに頼まれてアンソロジー企画に一本小話を寄稿した。憲法記念講演会に行ったあとは、私は都内の劇場へと最近ハマっている俳優さんのお芝居を観に行くつもりだ。鞄には、論文とぬい、アクリルスタンドに双眼鏡。
参加したアンソロジーの宣伝ポストをリポストしたあと、ふと数年前の出来事を思い出す。あのとき、私はなんて言えばよかったんだろう。今年もわからないままだ。

 

この数年で、憲法をめぐる状況は変わった。だから、こんな呑気なことは言っていられないのかもしれない。実際、多くの人たちがペンライトを持って国会前に行っている。数年前、国際展示場前駅で私が言い返すために足りなかったものを、その光の中に見る。
「暮らし」と「オタク」と「政治」の顔を、都合よく切り分けて、インスタントな「居心地の良さ」に浸っていられる時代は終わりを迎えようとしているのかも、と思うとゾッとする。そして、その原因の一端に、あの時、私が言い返せなかったことがあるのかもしれない、じゃあ、どうしたらよかったんだろう。相変わらず、答えがわからないまま、デモの情報をオタクのアカウントでリポストしてみる。

 

無数のアカウントに分けられる前、「わたし」がいて、その「わたし」が「暮らし」を営んでいる。この連載では、そういうアカウントに分ける前、の話をしたい。結論はなく、時に曖昧で、どっちつかずの話が多くなるだろう。
キレキレの憲法研究者として最新の理論を示すことは、たぶん無い。ずぶずぶのオタクとして手垢のついた表現……例えば「尊い」なんて話をここでする必要もないだろう。

 

ここにあるのは、アカウントに分けられる前、の話。あるいは、I’m aオタクとか、研究者とか、女とか、なんていうか、そういう名乗りの「合間」のわたし。はたまた、「I(私)」と「愛」の「合間」のあいまいな話。なんつって。

 

「わたしは……!」と言い切ることのできない、その言い淀んだところ、I’m a _のあいまを、ひとつの自分で地続きに生きる、私の「暮らし」の話。